軍隊の作戦行動には莫大な軍資金を要するのが常識である。古来より物資の調達
や傭兵隊の給与など、軍司令部や司令官がその支払いのために貨幣を発行した形跡
は、それこそ随所に見出すことが出来る。
古代ギリシアでは、紀元前4世紀にカルタゴがシチリア島に進出した際、傭兵隊
への給与支払いにテトラドラクマ銀貨を製造、その証拠を後世に伝えた。これらに
はカルタゴを象徴する馬や椰子の木を描いており、表面のアレトゥサやヘラクレス
像が、外地での製造貨幣であることを物語った。
国内使用のタイプは、冥府の女神タニットが描かれてきた。
古代ローマでも共和政時代、ユリウス・カエサルの軍がやはり移動造幣所を有し
ており、象を描くデナリウス銀貨を大量に発行していたのだ。これらも貴金属貨幣
であって、支払を受ける側に対価の保証をしていた。
古今東西を問わずに外地の遠征は戦費をいかに運搬するか、これが重大な問題と
なった。1853年に勃発したクリミア戦争では、イギリス軍はロンドンから軍用
列車でドーヴァーまで運び、船でクリミア半島の戦場まで運搬した。このとき強奪
を企てた一味があり、映画化にもなったほどだ。
このときの軍用金は、ヴィクトリア女王のソヴリン金貨である。
その直後の1859年に、イタリアではサヴォイア家による国家統一の動きが盛
んになり、愛国者のジゥゼッペ・ガリバルディ(1807―82)は志願兵を集め
、赤シャツ隊を編成してシチリア島、ナポリ、カラブリアなどの地方を制圧、これ
らをサルディニア王ヴィットリヨ・エマヌエ2世(1849-61/イタリア王61
-78)に献上した。
更にローマへの進撃を企て、ガリバルディは軍資金を得る為、軍用証券を発行し
て募集を計画する。この額面は100リレで、支配地域の有志に引き受けさせた。
この価値は量目32.2580gの金貨に相当、現在の金価格からすると13万円
程度と言える。当時の購買価値だとその何倍にも感じられたはずである。
ここに示した軍用証券の手書きナンバーは2287番だから、少なくとも22万
8700リレを調達したことになる。ガリバルディはそれらの1枚1枚に、自らの
署名をすべて自筆でやった。けれど彼自身は雄途のさなか重傷を負ってしまったが
、イタリア統一の最大の英雄として歴史に名を留めた。
1861年から65年にかけてのアメリカ南北戦争に際しては、戦端が開かれた
直後から多くの州(南部諸州が多かった)が、戦時国債とワラント債(保証債券)
が発行された。これらのなかに軍用証券の範疇に入るものも少なくない。また、軍
票の性格を有するタイプも見出せた。時代的に考えてこれが世界最初の軍票と考え
られた。
明確な形で軍用証券が登場したのは、昭和19年(1944年)の<大日本南支派
遣軍司令官>の名の下に発行された、中央儲備銀行券との兌換券である1000円額
面のものだ。これは広く紙幣として流通したと思われ、何しろ美品以下の状態のものばかりが目につく。
STANDARD CATAROG OF WORLD PAPER MONEYでは、未使用紙が評価不能とされている。
面白いことにこの発行者――南支派遣軍司令官は、1944年の時代で存在して
いない。すなわち、この方面の軍司令官は二人だけで、昭和15(1940)年2
月10日から15年10月5日までが安藤利吉中将、15年10月5日から16年
6月28日までが後宮(うしろく)淳中将が在位した。それを最後に軍司令官、参
謀長、参謀副長が移動となり、部隊は南部仏印へと転じたのだった。つまり<南支派
遣軍>は南支郡に存在しなかったことになる。
しかしながら<大日本南支派遣軍司令官>の名において、この軍用証券が発行され
たのだから奇妙な出来事と言えるだろう。印刷されたのは香港だと考えられるが、
戦争末期の物資不足の条件下の為、用紙には皺が目立っており、インクの汚れも珍
しくない。
やがて日本の傀儡(かいらい)である中央儲備銀行の紙幣も価値が下落し、
それとリンクした軍用証券もまた交換レートの低下を招く。
そして終戦によって現地では無価値状態となった。
それが逆に今日の稀少化を生じたのである。
このように戦地における戦費の調達は、あらゆる手段を用いて実施された。
日本軍が昭和16(1914)年に香港を占領したとき、中華民国の紙幣を刷っていた
印刷所を押え、莫大な量の紙とインク、そして印刷機械を手中に収めた。これらは
小田急線の登戸にあった陸軍の研究所へ送られ、大量の法幣(政府発行紙幣)を刷
、中国大陸で物資調達に使用した。それも歴史の1ページであった。
平木啓一
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