クレオパトラとマルクス・アントニウスの肖像が描かれたコイン

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「エジプトAE20青銅貨 クレオパトラ7世/マークアントニー 32-31 B.C. AU RARE」Coin-Expertオンラインショップで販売中。

 

グレード:AU
Strike:5/5
Surface:3/5

造幣地:シリア カルキス
発行年:32-31B.C.
最大直径:20mm
量目:6.82g
表:ダイアデムをつけたクレオパトラ7世(51-30 B.C.)
裏:マルクス・アントニウス

 

 

2人の肖像を描くコインは、このコインの他にローマ東方植民地や属領でのテトラドラクマ合金貨やアレクサンドリアでのデナリウス銀貨がある。

これらが非常に高価なのに較べ、このAE20青銅貨(黄銅貨もある)が彼らの肖像を今日に伝えているとしたら、比較的適当な価格と言える。

この銅貨に描かれたクレオパトラはテトラドラクマ銀貨に描かれた肖像に較べ、女性的であり、より実際のクレオパトラの顔に近いと思われる。

クレオパトラ7世のコインは現存数が少なく、コンディションの良いものは人気が非常に高く、入手困難なコインの一つであり、高価である。

 

クレオパトラは死後、劇作家シェークスピアの題材にもなり、さらにはハリウッドなどで何度もドラマ化されたが、

どれもがクレオパトラの死後に作られたものであり、生前のクレオパトラを知ることのできるものは少ない。

コインに描かれたクレオパトラだけが入手可能な生存中の肖像であり、歴史的な文化財と考えてよい。
さらに、2000年以上経過しているにもかかわらず、顔の輪郭まではっきり残っているのは素晴らしい。

 

クレオパトラという名は古代ギリシャ及び古代エジプト プトレマイオス朝の女性王族の名前であり、

絶世の美女として知られる有名なクレオパトラはプトレマイオス王朝最後のクレオパトラ7世である。

クレオパトラは絶世の美女として知られるが、比類なき美貌の持主ではなかったとも言われている。
クレオパトラは世界最大のアレクサンドリア図書館で幼少時代から一流の教育を受けて過ごし、8ヶ国語を流暢に話す、

世界一教養の高い女性であった。
当時の王族でエジプトの言葉を話すただ一人のファラオであったとも言われている。

クレオパトラ7世はプトレマイオス12世アウレテスの娘であり69B.C.に生まれ、
クレオパトラ7世の父が51B.C.に亡くなると弟のプトレマイオス13世とともにエジプトの王位に就いた。
クレオパトラ7世はプトレマイオス13世と仲が悪く、48B.C.に一時的に弟の側近の陰謀により追放されたが、
その後すぐに、ユリウス・カエサルの力を借り、王位に返り咲く。
その時、クレオパトラがユリウス・カエサルの気を引くために、
自らが絨毯に包まり、贈り物となりカエサルの前に現れたと伝えられている。
ユリウス・カエサルはこの演出と、度胸、機知にとんだ会話に魅了されクレオパトラを完全にバックアップしてゆくことを決めたのであろう。

翌年、プトレマイオス15世(プトレカエサル、カエサリオンとして知られている)を出産。
ユリウス・カエサルに馬鹿げた陰謀を企て、側近が処刑された後、プトレマイオス13世はナイル川の戦いで溺死。
その後クレオパトラ7世の弟プトレマイオス14世がクレオパトラと共に王位に就いた。
46B.C.にエジプトの女王クレオパトラはカエサルの招待で息子と共にローマを訪れた。
カエサルはすでに妻帯者であったため、
ローマ市民から好感をもたれずスキャンダルとなったが、
3月13日44B.C.ローマ執政官ユリウス・カエサルの暗殺の日までローマに滞在していた。
しかし、カエサルが自分の子を遺言に後継者として指名せず、オクタヴィアヌスを指名していたと知り、失意のままアレキサンドリアへ戻る。

そのすぐ後には弟のプトレマイオス14世が死亡、

クレオパトラの息子プトレマイオス15世(カエサリオンとして知られている)が代わりに権力の座に就く。
クレオパトラは3歳の息子はカエサルの子であると主張したが、真実はいまだ謎である。

クレオパトラとのマルクス・アントニウスとの交際は41B.C. タルソスの会見から始まった。
そしてローマ執政官のマルクス・アントニウスはクレオパトラと冬をアレキサンドリアで過ごした。
翌年、クレオパトラは双子を出産。
アレキサンダーヘリオスとクレオパトラセレネ2世である。
マルクス・アントニウスはオクタビアヌスの妹、オクタヴィアと結婚しているのにもかかわらず、37B.C.にエジプトの女王クレオパトラと結婚した。
二人はシリアのアンティオキア教会で結婚式を挙げた。

これらの出来事はローマ市民を怒らせ、避難の的となった。
そしてオクタヴィアンの地位が上がり、アントニウスの人気に陰りが出てきた。
36B.C.に3番目の子供、プトレマイオス ピラデルポス2世が生まれた。
マルクス・アントニウスのアルメニア講和後、
マルクス・アントニウスが以前の広大なプトレマイオス朝の領地、
フェニキア、パルティア、キレナイカなどをエジプトへ返還した。

これによりローマに対抗しうる強い帝国、栄華の復活というクレオパトラの野望が実現したのだ。

Queen of kingと彼女の発行したコインにも刻まれている。
これらの重大な出来事が有名なローマ執政官であるマルクス・アントニウスと
エジプトの女王であるクレオパトラの肖像が描かれたデナリウス銀貨を発行させるに至らせたのである。
二人の肖像は36B.C.に東方進撃に際し兵士たちへの支払いのために発行されたであろうテトラドラクマに既に刻まれていた。

マルクス・アントニウスとオクタヴィアンの仲は次第に悪化。
ついにローマはエジプトに宣戦布告する。

マルクス・アントニウスは31B.C. 9月 アクティウムの海戦でオクタヴィアンとアグリッピナに倒された。
翌年オクタヴィアンのエジプト侵略により、マルクス・アントニウスとクレオパトラは霊廟で正装し、アレキサンドリアで自害。
クレオパトラ7世は自らを毒蛇にかませて自害したと言われている
これにより300年によるギリシア ヘレニズムの歴史に幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

2016.8.11|ギリシャ/ローマ 資産としてのコイン

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